くらしの記憶展
「くらしの記憶展」より 旧国道を軒先をかすめるように砂けむりを立てながら走るボンネットバスとオート三輪車
「くらしの記憶展」より ポーと響きわたる警笛、もくもくと黒煙をあげながら走るSL高山線。昭和42年まで走っていたが惜しまれながら姿を消しました。
「くらしの記憶展」より こおりもち(寒もち)・火鉢でのもち焼き、ところ天、納豆、電話機、蓄音機。
「くらしの記憶展」より 子供をつぶらに入れて農作業をしていた。荷物を背負う時に身につけたみのごも、ばんどりは雨が降った時の作業時に使った。現在の雨カッパである。
「くらしの記憶展」より 岩瀬の方から笹津線に乗って行商のおばさんが魚の塩干物を背負って、馴染みの家を売り歩きました。
「くらしの記憶展」より 行商のおばさんが荷車に大根・白菜・きゅうり・なすなど新鮮な野菜を積んで売り歩いていました。
「くらしの記憶展」より 変わりゆく住まいの中で消えてゆく伝統の技。柱の穴開け、カンナかけ、チョンナでの荒はつり、カケヤ、金差し、墨ツボと墨差し。
「くらしの記憶展」より ふいごで風を吹き込みながら真っ赤に焼けた鉄を打つ。主にくわなど農具が造られていました。
「くらしの記憶展」より 自転車でチリンチリンと鐘を鳴らし、アイスキャンディ屋のおじさんがやってきます。1本5円、あずきやいろんな色があり鐘の音を楽しみに待っていました。
「くらしの記憶展」より カチカチ拍子木の音がすると紙芝居の始まり。3円、5円の昆布を買って観ました。当時は「黄金バット」がヒーローでした。
「くらしの記憶展」より 竹馬、自転車の輪ころがし、模型飛行機、空き缶歩き、すずめ撃ち、スギ鉄砲など遊び道具は全て手づくりで、自分たちで作りました。
「くらしの記憶展」より どの川にもドジョウ、フナ、キス、ナマズなどたくさんいました。網はなくザルを使って獲り、食べるとおいしく貴重なタンパク源でした。
「くらしの記憶展」より 年末になると朝早くから、どこからともなく、ペッタンペッタンと餅つきの音が聞こえてくる。豆餅、あずき、きなこ餅、つきたてのおろし餅は本当においしかったです。
「くらしの記憶展」より お盆の8月13日ワラや竹を燃やし空き缶に松の根を入れタイマツを作り、振り廻しながら「ジイジもバアバもショウライ」と叫びながら先祖を偲びました。
「くらしの記憶展」より 寺や神社の境内や広場で子供から大人までやぐらを囲んだ二重三重の踊りの輪、やぐらの上では私の祖父が音頭をとっていた姿が幼子心に憶えています。
「くらしの記憶展」より 板や竹を巧みにさばき桶を造り上げる。当時、桶は漬け物に使ったり生活の必需品でした。
「くらしの記憶展」より 大豆を煮込み、機械に入れて廻し、塩・糀を混ぜてみそを造ります。
「くらしの記憶展」より 農作業のない冬期間。寒い中での仕事、祖母のシワだらけの手で巧みに編んでいた姿が懐かしいです。
「くらしの記憶展」より とうみをつかって風を起し、その風力でゴミを飛ばし、籾だけを取り入れた。当時は、手間がかかり11月頃まで農作業が続いていました。
「くらしの記憶展」より 田つぼ(にゅう)と脱穀風景。天候を見ながら足ふみで一束ずつ脱穀するため、大変な手間と時間を要しました。
「くらしの記憶展」より わく転がしで、アタリをつける田植えは、人手が必要なため、家族はもちろん近所の人などの手を借り大きい田んぼでは10人を超えることもありました。
「くらしの記憶展」より 当時、牛や馬の力を借りての田おこしやしろかきの作業をしていました。
「くらしの記憶展」より 私の母は京都で習得した刺しゅうの技術で帯、反物に刺しゅうをしていた。 その絵柄の鮮やかな色彩を鮮明に残っています。
「くらしの記憶展」より 現在は、コックひとつで水やお湯が出ますが当時はつるべ井戸、ポンプ井戸に頼っていました。水が上がらないこともあり、もらい水をすることもありました。
「くらしの記憶展」より 電灯の下で裁縫箱を使っての繕い姿、たらいに水をはり、洗濯板を使って一枚いちまい洗いました。また、川で洗濯をする人もいました。
「くらしの記憶展」より 太い柱、梁でがっしりとした造りで、いろりがあり、冬は暖かく夏は熱が遮断され大変涼しかった。
「くらしの記憶展」より 当時は蚊が多く「かや」を張って中で寝ていました。子供の頃は楽しく、今でも楽しく懐かしい思い出となっています。
「くらしの記憶展」より 暖をとり語り合い、お茶を飲みながら芋を焼いたり鍋を囲んで家族団らんの場でした。
高畑さんが黄斑変性症という目の病になったのが49歳。お医者さんからは失明する、と言われていたのですが10年位経った頃、病の進行が止まり、ようやく希望の光が見えたそうです。 イラストレーターの仕事は辞めてしまったのですが、何かを描きたい、という気…